その3|「ニューヤクニタツ」 〜クリエイターたちが役に立つことを考えてみる〜

「いま、つながる、を考える」ためのWeb限定コンテンツ第三弾として、第一弾コンテンツで高知を元にしたヘンテコVR空間「パラレル高知」を作ったメディアアーティストの谷口暁彦さん、高知のフィギュアイラストレーター・デハラユキノリさんと、またお話しします。
今回はちょっとマジメに「役に立つ」というテーマについて、楽しくお話しします。

今回の登場人物

谷口 暁彦さん

メディア・アーティスト/多摩美術大学情報
デザイン学科メディア芸術コース専任講師

埼玉県在住

デハラ ユキノリさん

フィギュアイラストレーター

高知県高知市在住

クリエイターが「役に立つ」ことについて一緒に考えてみる

▼事務局

第一弾コンテンツに続いて谷口さんとデハラさんとお話ししようと思います。
よろしくお願いします。

▼事務局

芸術や表現が「役に立つ」ということについて、お二人の意見を聞きながら一緒に考えたいとおもいます。
これは、二つくらい前提があるのかなと思っています。

一つには、芸術や表現、アート等というのはそれを作るアーティストやクリエイターたちによる自発的な営みなのであってそれが「役に立つかどうか」というのは作ることそのものとは別のことなのだというような、「作ること」「表現すること」に対する素朴な理解の仕方があります。

これは一般的な理解の仕方の一つなのであって、人によっては、例えば美術史的な観点から「いや、そうではなくて、芸術はその成り立ちの中に元々『他人の役に立つ』という意味がこめられていたのだ」というようなことを主張することも可能かもしれません。

もう一つは、「現代社会を考える」ということかなと思っています。

芸術に限らず色々なことが経済循環や課題解決との関連で語られ、位置付けられるようになってきた社会の中で、「芸術/表現」はどういう意味を持っているのかを考えてみたいわけです。

これらについて、自身がアーティスト/クリエイターであるお二人と考えを交換してみたいと思います。
せっかくなので、第一弾コンテンツの中でつくったヘンテコVR空間『パラレル高知』ももう一度見てみながらこれが役に立つのかどうかということについても考えられると、より具体的なお話をできるのではないかと思っています。

お二人とも「作る」方達なので、創造的なイメージを広げながら、楽しくお話ししたいですね。
よろしくお願いします。

▼谷口さん

よろしくお願いします。

▼デハラさん

よろしくお願いします。

「役に立つ」ことについて

▼事務局

最初に、議論の手がかりとして谷口さんが発表を用意してくれました。
それでは谷口さん、お願いします。

▼谷口さん

はい。
「楽しくお話し」するということで私もそのつもりだったのですが、発表資料を作っているうちにそんなに楽しい感じじゃないというか、マジメな感じになってきちゃいました。(笑)
というのも、「役に立つ」というのは、なんというか批評的なテーマでもあるなということを思ったということでもあります。
まあ、ともかくやってみます。

↑谷口さんの発表はこちらの動画でもご覧いただけます。(一部、編集されています)

▼谷口さん

まずは芸術とか表現以外の場面で「役に立つ」が問題となる場面のことから考えてみました。

例えば、「大学」ではそのことが問題となることがあります。
僕は今大学に勤めているのですが(多摩美術大学情報デザイン学科メディア芸術コース専任講師)、大学の研究では色々な指標があって「役に立つかどうか」を問われることがあります。

これはこの10年くらいの「大学の独立行政法人化」とも関連していて、大学や研究者は研究資金や運営資金を得るために自分たちの「有用性」を説明して資金を獲得しなければならなくなってきました。

これには良い面と悪い面がそれぞれ色々とあって、今も活発に議論が交わされている点です。

▼谷口さん

そんな中で僕が思うことは、「役に立つとはいったいどのようなことなのか?」ということです。
日常的な言葉として「役に立つ」はごく普通に使われる言い方ですが、それは一体なんのことなのかということ自体を問うべきだと考えています。
「役に立つ/立たない」という評価軸そのものの内容もまた、評価・検討しなければならないということですね。

それでここに画像を載せたのは、「役に立つアート」の一例です。
これは新宿駅の構内にあるもので、「排除アート」というような呼ばれ方をしているものの事例です。

広場のようなところにアート的なオブジェがあるのですが、これによって、ホームレスの人や若者がこの場所にたむろしたりすることを抑制しているという面があるわけです。

これは確かにある面では「役に立っている」と言えます。
少なくとも一時的にはその場所や地域の美観を保って、治安をよくしていると言えるかもしれません。

ですが、本質的な解決になっていないのは明らかです。
この場所にホームレスや困っている人がいられないのは確かですが、その問題自体が解決したわけではないし、むしろ「困っている人がいるという事実を隠してしまっている」という面もあると思います。

このことを「役に立つ」と呼んで無条件に良いことだとしてしまって良いのか?ということがあるわけです。

▼谷口さん

次に挙げたのは、『役に立たない研究の未来』(柏書房|初田哲男、 大隅良典、隠岐さや香 他 著)という本です。
科学や科学史を専門にされている方達の話を元にした本です。

この中に出てくる話で隠岐さや香さんという方によると、研究や学術の世界では「役に立つかどうか」や「研究の有用性」は過去を振り返っても常に問われてきたそうです。それぞれ異なる立場から「役に立つ」についての議論はされてきたと。

そしてそれをやめられないのは、それが「政治的な言葉」だからだという言い方をしています。
政治的な言葉というのは、それが未来や将来のための言葉であると同時に、そのことを通して誰かを「説得する」ための言葉でもあるということですね。
その研究にお金を出してくれる人にとってだったり、または広く市民とか社会とかにとって「役に立つ」研究であるということを認めてもらうための説明だということです。
そういう面があるために、そういう話をすること自体は避けられないものでもあるというわけです。

同時にそこには政治的な「問題」もあります。
有用性を説明することはその研究を社会や政治に対して開くということでもあるし、同時にある種のイデオロギーみたいなものの影響を受ける可能性も出てくるからです。

▼谷口さん

こういう話を読んでいると思い出すのが、2019年の「あいちトリエンナーレ」の騒動です。

あの時の騒動の中では、あの時に問題になった作品そのものに反対している人もいれば、「税金を使っていなければいいんじゃないか」というような言い方をする人もいました。
この言い方は税金を使って人に見せることの是非を言っているのだと思うのですが、この言い方の中には作品を作っている作家やアーティスト側自身も市民の一人だという視点が抜け落ちていると思います。

「税金」のことに関連して、先ほども出てきた大学のことについて一つ考えることがあります。

僕の場合は私立の美術大学に勤めていますが、実は私立大学も補助金等の形で一部税金で運営されている部分があります。
そう考えると、「税金を使っていなければいいんじゃないか」という考え方を本当に当てはめるとなるとあらゆる大学で行われている表現や研究もその内容について「良い/悪い」「有用だ/無用だ」というような判断をされて制限されるようなことがありうるのかと思うと、怖いなと感じたのを覚えています。

▼谷口さん

少し話を整理します。

「役に立つ」ということを、いったん「機能する」ということだと考えてみます。そうすると、「役に立っていない」状態というのは、「事故」とか「エラー」とか、「失敗している」状態のことと考えられるかなと思います。

ここに、ポール・ヴィリリオというメディア論の研究者の『アクシデント 事故と文明』(青土社)という本を挙げました。
ヴィリリオがこの中で主張しているのは、「新しい技術が発明されるということは、同時に新しい事故が発明されるということでもある」ということです。
むしろその「事故」とか「失敗」の方に着目することで、その技術の正体や本質が明らかになる場合があるということでもあります。

これは一般的な経験則の中でも、なにか失敗した時や不具合が起こったときにその中にある仕組みがよく分かるというようなことはよくあることだと思います。

例えば身体のどこかに怪我をしたときにはじめてその怪我をした部分がどういう仕組みなのか、その部分を自分は普段どう使っていたのかを意識し、理解した経験があるという人はたくさんいるんじゃないでしょうか。
あとは、福島の原発事故が起こったときに、ニュースなどで原発の断面図を見せながら解説している様子を見て原発の仕組みをはじめて知ることになったという経験も、多くの人が体験したと思います。

これらのことを考えると、「役に立つこと=有用性=機能すること」だけを考えてしまうと、そこにある本質的な仕組みや原理のことを見落としてしまうかもしれないという危惧があるなと感じています。

▼谷口さん

もう一つ、事故や不具合が起こったときにそれを「直す」ということについても考えることがあります。

これは、「There, I Fixed It」という海外の画像掲示板です。
色々な道具や機械を直している画像がたくさん掲載されているものです。
これ自体はジョークみたいなものですが、一つ一つ眺めていくと面白いところもあります。

左上の画像ではショッピングカートを使って焼肉を焼いていますが、「確かにこういう使い方もできるな」ということに気がつきますよね。
ショッピングカートは金属でできているし、十分に耐熱性があって、物が落下しない上に熱を伝えることもできるので、肉を焼くことができるわけですね。
下段中央の画像はキャスターが取れてしまったテーブルの脚に、それとたまたまちょうど同じ高さのハンマーを取り付けて直してあります。

これらをみていると、それぞれの物の「隠れた機能」を発見しているようなところもあるわけです。
間違った直し方なんだけれども、それによって物が持っていた潜在的な機能を明らかにしているという面があって、新鮮な発見があります。
ここでは「失敗」や「不具合」が、実はそのまま創造的なプロセスにつながっているように感じます。

「役に立つ」とか「機能」ということを考えるときに、目の前にはっきりと提示されている機能だけに着目していると気がつけない、こうした隠された部分があるということですね。

▼谷口さん

ここに載せたのは、僕自身が作った映像の一部です。
2016年に『dada 100』という、ダダの100周年を記念したイベントがあったのですが、そのために作った作品です。(ダダ=1910年台に起こった芸術運動の一つ。ダダイスム)

ダダについてよく言われることの一つに、「ダダは無意味を発見した」というのがあります。
ダダは一見すると意味不明な言葉の羅列や表現を用いたパフォーマンスを行っていたのでそのことに関連して美術批評などの中ではよく言われることなのですが、そのことを僕なりに理解しようと思ってこの映像を作りました。

その中で、『ドラえもん』のマンガの一部を引用しました。
のび太が色々なガラクタを押し入れに溜め込んでしまってそれらを捨てられないという場面です。
のび太のお母さんは「いらないものなんて捨てなさい」と叱っているのですが、当ののび太は「いらないものなんて無い」と言っています。

壊れた電気スタンドは「停電の時に使えばいい」とか、動かない扇風機は「暑くない日に使える」とか穴の開いたグラスは「何も飲みたくない時に」とか、トンチンカンなことを言うわけです。
先ほどの「There, I Fixed It」にも通じるものを感じているのですが、ここでのび太が言っている「使える」というのは、僕らの知らない「有用性」なんじゃないかと思うんです。
のび太が言おうとしているのは僕らの世界にはない、新しい世界のことのような気がして驚きを感じたんです。

▼谷口さん

もう一つ例を挙げます。
これは、スラヴォイ・ジジェクという哲学者のインタビューの一部を日本語訳している動画です。
「クリーム抜きコーヒーとミルク抜きコーヒーの違い」という話をしています。
僕はこれをみた時に、先ほどののび太の話とも通じる驚きを感じました。

この動画の中でジジェク自身も言っているように物質としては「クリーム抜きのコーヒー」と「ミルク抜きのコーヒー」はもちろん同じものです。
でもその来歴は違うし、そこに隠されているイデオロギーも違うかもしれないと。

僕は例えばこの話を、冒頭にお話しした「排除アート」の話を関連づけて考えます。
ある場所に「ホームレスの人がいない」という物理的な状況があったとしても、その裏側で社会的に、制度的に本当に「困っている人がいるという状況が改善した」のと、単にその場所から「追い出した」のとでは全然違うし、それを混同してしまってはいけないわけです。

排除アートによってホームレスの人がその場所から追いやられるという目の前の出来事を排除アートの「有用性」だと捉えてしまうと、こういったことから目を逸らされてしまうと思います。

▼谷口さん

アーティストが作った作品の事例も挙げておきます。
パナマレンコという作家の作品です。
このアーティストはずっと、「空を飛ぶ」とか「重力から逃れる」ことをテーマに作品づくりに取り組んでいます。
飛行機とか飛行する機械の作品なのですけども、いずれの作品も、本当に飛べるわけではないんです。
飛べそうに見えるんだけれども、飛べないという。

エリー・デューリングという人が「プロトタイプ」という議論の中でパナマレンコの作品を紹介していて、その中では、そもそも人間は「成功する」とか「うまくいく」ということを重視しすぎていて、ものをつくったり創造したりすることの中にある「失敗する」ということを隠してしまったり目を向けないようにしてしまっているんじゃないかと言っています。
創造のプロセスの中には当然ながら失敗はたくさんあるわけでむしろその失敗を通してこそ「我々は何をやっているのか」を知ったりそれを意味づけることができるはずだと言うんです。

僕自身も、美術大学で学生の指導をする時には失敗したことやうまくいかなかったことを発表したりプレゼンテーションの中に入れるように伝えています。
「こうやったらうまくいかない」というようなことはそれ自体が発見なので、大学の場でそれを他の人たちに向けて発表したり共有したりしてもらうことはとても重要だと思っています。

▼谷口さん

ここまでの話をまとめます。

まず、ある機能や仕組みが不具合を起こしたときは、その仕組み自体が本来どのようなものであるかを私たちが知るということにつながる重要なプロセスだと考えています。
メディアアートの中にもエラーとかグリッチをわざと起こしてそれを見せるような作品がありますが、それらはおそらくこういった部分と関連しているのじゃないかなと思います。

もう一つ伝えたいのは、僕は、僕たちはただ一つの「現実の世界」を生きているわけでは無いと考えています。
なにごとか出来事があったときにその意味をどのように解釈したり理解するかは人によって違うし、それを「失敗」とするか「成功」とするかも人によるということはあり得ることです。
そうするとそこでは人それぞれに異なる「世界」を生きているわけで、一つだけの「現実の世界」があるとは言えないということです。
そうでないならば僕らはコミュニケーションをとれないし、そもそもコミュニケーションをとる必要すら無いということになってしまいますよね。

▼谷口さん

今日挙げたのび太の話や「There, I Fixed It」、パナマレンコの作品なんかを見ていると、実は「世界」は色々なところに隠されているような気がしてくるんです。
そこにはまだ見ぬ「機能」とかまだ見ぬ「役割」があるんだということが見えてくると思います。
それを発見することも、また一つの「役割」なんじゃないかということです。

あと一つ考えたいのは、「役に立つ」ということを考える時に、それが「誰にとって役に立つのか」ということです。
何かが誰かの役に立つときに、そのことが同時に別の誰かを不幸にしているということだって、あり得るわけです。

あるいは「どのくらいの時間のスケールで役に立つのか」ということもあります。
すぐには役に立たなくても、長期的に役に立つということだってあるわけです。
今日挙げた例の中だと『役に立たない研究の未来』なんかを読むと分かりますが、ある研究者のある論文が、それが書かれた時は誰にも見向きもされないけれど10年くらい経ってから価値が発見されて重要な意味や隠されていた世界が発見されるということもあります。

そうした視点に立つと「役に立つ」かどうかを判断する評価軸もまた自明なものではないということがわかるのでそれ自体を常に考える必要があるということでもあります。

「役に立つ」ということについて明確なただ一つの答えというのは無いということですね。
隠された機能や、役割や、世界は常にあるし、それらの発見と変化の中で常に議論し、変化し、更新していかなければならないと思います。
ずっと考え続けなければならないということですね。

このあたりが、僕が「役に立つ」ということについて考えていることのまとめです。

▼デハラさん

実はいま、指が折れているんです。

▼谷口さん/事務局

えっ!!

▼デハラさん

それでちょうど最近、折った指を見ながら「骨の仕組みが分かるな」なんて思っていたところでした。骨と骨が関節のところでどういうふうにくっついているのかな、とか。
さっきの谷口さんの話の通りだなと思って、おもしろいなと思いました。(笑)

▼事務局

確かに面白いですね。

▼谷口さん

ありがとうございます。(笑)

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